Balkan Folk Music Discography

バルカン半島~黒海周辺地域の音楽と踊りを深掘りするブログ

Ibraim Odža ~ Bog da go bie! 神が罰してくださいますように! ~(北マケドニア)

今回は北マケドニアの民俗舞踊「Ibraim Odža(イブライム・オジャ)」の踊りと音楽を紹介します。

 

まずは次の動画から。イリヤ・ニコロフスキー=ルイ国立音楽バレエ教育センターの生徒たちによる舞踊演目の Ibraim Odža。2018年の映像です。

 

Ибраим оџа/Ibraim odza

Petar Pechkov (2018)

 

舞台は北マケドニア中央部の都市ヴェレス。山の斜面に住宅が立ち並ぶ1940~1950年代(おそらく第二次大戦後)のヴェレス市の写真を背景に、街なかで執り行われる結婚式の様子を表現しています。

結婚式の参列者は20世紀中頃の装い。男性はスーツに丸つばの帽子、女性は古風なドレス、楽団はチャルギア *1と呼ばれるトルコ風の演奏スタイルに則った衣装を着ています。

 

最初のつかみということでこの踊りが踊られる地域や時代感覚が掴めそうな演出の動画を選びましたが、果たしてこの Ibraim Odža は結婚式にふさわしい幸せな踊りや歌なのでしょうか?今回はこの Ibraim Odža について踊りと音楽の両面から掘り下げてみたいと思います。

 

 

Ibraim Odža Oro(踊り)

前述の動画は Ibraim Odža の踊り(Oro)がヴェレス(Veles)の踊りであったことを物語っていました。

下に北マケドニアの地図を示します。ヴェレスは北マケドニアのちょうど真ん中あたり。国際河川のヴァルダル川沿いに位置し、北マケドニアの首都スコピエ、古都ビトラ、ブルガリア(ピリン)のブラゴエヴグラトおよびギリシャのテッサロニキへと続く主要道路が交わる要衝の地です。

 

www.openstreetmap.org

北マケドニアの交通マップ。マゼンタの線は国境、黒い線は主要道路。ヴェレスは図の中央付近。

 

Ibraim Odža Oro は無形の伝承文化であるためいつ頃から踊られているかは定かではありません。何世紀も前と思われますが、踊りの記録としては1954年に体育教師・民族振付学者のガンチョ・パイトンジエフによる「アロ・トンチョフのヴェレス・チャルギアによって行われた踊り」が最も古い研究記録とされます*2

アロ・トンチョフのチャルギアの演奏については、現在スミソニアン・フォークウェイズ・レコーディングス*3によってデジタル化された当時の音源を聴くことができます。フォークロアを感じさせるとても良い演奏と歌声です。

 

Pesnata Ibraim Odža (The Song of Ibraim Odža)

Alekso “Alo” Tončov, Mustafa Eminov, Trajče Našev, Zdrave Stafilov, Music of Macedonia: Playing 'Til Your Soul Comes Out, Smithsonian Folkways Recordings (2015) 

 

この Ibraim Odža Oro は一般には Beranče(ベランチェ)という踊りに分類されます。もともとあった Beranče の踊りに Ibraim Odža の詩が後から付けられたのか、あるいは Ibraim Odža の詩が先にあってそれにあわせて Beranče が踊られたのかはわかりません。

Beranče のダンスビートはたいていの場合不均等な5拍。1拍目と4拍目が少し強調され、1ㇳ, 2, 3, 4ㇳ, 5(ㇳは半拍程度)、あるいは Slow-Quick-Quick-Slow-Quick などのようにカウントされます。拍子記号で表すならば12/〇拍子(=(3+2+2+3+2)/〇)のように表すのが一般的です(拍子記号の分母「〇」には「8」または「16」のいずれか。以下では省略)。

しかし実際この強調のされ具合はとてもフレキシブルであり、地域や楽団ごとにさまざまなパターンがあります。そのため拍子記号で表すと、11拍子(3+2+2+2+2)、12拍子(3+2+2+3+2)、13拍子(3+2+3+3+2)または(3+2+3+2+3)、15拍子(4+2+3+2+3)、16拍子(4+2+3+4+3)などさまざまな形になります。拍子記号は便利な指標でこれを利用している楽譜やダンスノートも多々ありますが、音をよく聴いて「ㇳ」のリズム感覚を身体で感じ取るのがやはり王道と思います。

 

Ibraim Odža の他にも Beranče と同じタイプの踊りには南西部の踊り のPušteno(プシュテノ)やビトラの踊り Kucano(クツァノ)などがあります。またギリシャでは Lithos Choros(リトス・ホロス)や Levendikos(レヴェンディコス)などと呼ばれています。

Pušteno(Žensko Pušteno Oro)と Kucano の例はそれぞれ次の通り。いずれの動画も、Ibraim Odža と同じメロディが使われている事例がありました。

 

КУД„Мирче Ацев“Прилеп - Женско Пуштено оро

Goran Vasileski (2015)

 

Kucano - Macedonian Oro Tutorial

MKUD Ilinden - Sydney (2020)

 

またこの踊りは、マケドニア人だけでなく、アルバニア人や一部のトルコ人にも共有されています。ヴェレス周辺にはアルバニア人も多く住んでおり、マケドニア人と同じように文化を共有していました。Ibraim Odža Oro はアルバニア語で Vallja e Ibrahim Hoxhës(ヴァリャ・エ・イブラヒム・ホジャス)と呼ばれ、北マケドニアやコソボのアルバニア人によって踊られています。

 

Vallja e Ibrahim Hoxhës - Rrënjët Tona

Red Media (2012)

 

Bog da go bie toj Ibraim Odža(歌と演奏)

今度は Ibraim Odža を歌と演奏の側面から探っていきましょう。

Ibraim Odža の歌は「Ibraim Odža」の他、「Bog da go bie toj Ibraim Odža(ボグ・ダ・ゴ・ビエ・トイ・イブライム・オジャ)」のように長い名称で呼ばれることもあります。

 

歌詞は次の通り。動画の歌を参考に読み進めてみてください。

 

Ansamb Biljana -Bog da go bie toj Ibraim Odza

INTV Official, Australia (2021) (注:前奏を44秒スキップ)

 

Bog da go bie toj Ibraim Odža,
toj Ibraim Odža, baš aramija,
toj Ibraim Odža, baš aramija.

Što mi izleze na Gučeva Češma,
na Gučeva Češma, so triesetmina,
na Gučeva Češma, so triesetmina.

(間奏)

Od tamu minale dva-tri kjumurdžii,
dva-tri kjumurdžii, mnogu siromasi,
dva-tri kjumurdžii, mnogu siromasi.

„Mnogu ti godini, bre Ibraim Odža,
mnogu ti godini, bre Ibraim Odža“.
Ibraim Odža im odgovara.

(間奏)

„Mojte godini, mnogu neka bidat,
vašite godini, malu neka bidat,
vašite godini, malu neka bidat,

aj idete dolu, vo Gučevo selo,
da im kažete na gučevčanite,
ruček da mi gotvet, za trieset duši,

(間奏)

ruček da mi gotvet, za trieset duši,
jagne pečeno, bela pogača,
em vino crveno, em vino crveno“.

 

神が罰してくださいますように、このイブライム・オジャを、
このイブライム・オジャを、あんな盗賊を、
このイブライム・オジャを、あんな盗賊を。

彼はグチェヴォの泉に向かったので、
グチェボの泉へ、30人の男たちを引き連れて、
グチェボの泉へ、30人の男たちを引き連れて。

(間奏)

そこを数人の炭焼きが通った、
数人の炭焼き、とても貧しい男たち、
数人の炭焼き、とても貧しい男たち。

「あなたの年が長続きしますように、イブライム・オジャ、
 あなたの年が長続きしますように、イブライム・オジャ」、
イブライム・オジャは彼らに答えた。

(間奏)

「私の年は多くあれ、
おまえたちの年は少なくあれ。
おまえたちの年は少なくあれ。

さあ下りて行きなさい、グチェヴォの村へ、
グチェヴォの人々に伝えに、
昼食を用意せよと、30人のために。

(間奏)

昼食を用意せよと、30人のために、
子羊のロースト、白いパン、
赤ワイン、赤ワイン。」

 

 

歌詞は「イブライム・オジャ」という人物にまつわる物語のようです。それにしても楽し気なメロディとは対称的に歌はかなり酷い言いようです。初っ端から「神が罰してくださいますように、このイブライム・オジャを」とはいったいどういうことなのでしょうか?読み解いていきましょう。


登場人物イブライム・オジャの「オジャ(Odža)」というのはムスリムの先生や師匠を意味する称号。位の高そうな人であることがわかります。

歌のシーンはイブライム・オジャが30人の手下を従えてグチェヴォの村に向かうところのようです。その道中、通りかかった貧しい炭焼き職人がイブライム・オジャに無礼のないようあいさつします。しかしイブライム・オジャは炭焼き職人を見下し、さらに30人分のご馳走を用意しておくようグチェヴォ村へ伝えに行けと命令します。

 

この歌、実はオスマン帝国時代の社会を象徴する物語です。このイブライム・オジャという人物はヴェレスを拠点に周辺の村々の農民から税を取り立てていた徴税人でした。イブライム・オジャは税の取り立てに容赦がなかったため、歌の中では「盗賊」と揶揄されています。

ただし実在の徴税人イブライム・オジャ個人に対する恨み節というよりは、むしろオスマン帝国を「イブライム・オジャ」に見立てて帝国が課した重税に対する不満を歌った普遍的な歌*4と捉えるのが良いようです。

ヴェレス周辺の村の一部では「イブライム・オジャ」の代わりに「デリ・ナスフ(Deli Nasuf)」という別の人物の名前があてられているそうです*5。またほぼ同じ歌が北マケドニア南西部の民謡として歌われている例*6もありました。その歌では、「アルダンツィ(Aldanci)のイブライム・オジャがプリレプ(Prilep)の平野、クルシェヴォ(Kurševo)の泉へやって来た」となっています。イブライム・オジャがヴェレスではなくアルダンツィの徴税人に変わっています。この歌にはさらに尾ひれがついて、卑劣な脅し文句で炭焼き職人を脅迫する歌詞が続きます。

実際オスマン帝国に支配されていた時代には各地の名士が帝国に代わって村々から徴税していました。この「イブライム・オジャ」のお話のような出来事は至る所で行われていたわけですね。

 

 

演奏事例もいくつか紹介します。この Ibraim Odža の拍子は一般的には12拍子とされていますが、前述のように11拍子から16拍子までさまざまなバージョンが知られています。以下はYouTubeで見つけたこれらの例です。

 

11拍子(3+2+2+2+2)

Ibraim odza oro ¹¹/⁸ - Grupa MAESTRO

Grupa Maestro, VELES - "Zvukot na Makedonija" (2022)

 

12拍子(3+2+2+3+2)

Ibraim Odza · Ljubojna
Ljubojna, Sherbet (2023)

 

13拍子(3+2+3+3+2)

IBRAIM ODŽA - ИБРАИМ ОДЖА - orch. Prijatno

( Folk orchestra Prijatno (1978) ? )


16拍子(4+2+3+4+3)

Ibraim Odza
Pangeo, Exit Visa (2008)

 

11拍子の例では演奏がスムーズに進行しますが、拍子の数が大きくなるほどリズムの「溜め」ができのんびりしたレトロな雰囲気に変化して行きます。こうして比較してみるとその違いがよくわかるのではないかと思います。

 

その他、5拍目が強調される13拍子の亜種(3+2+3+2+3)と15拍子(4+2+3+2+3)の拍子パターンが Folk Dance Musings*7 で指摘されていますが、これらの実例については今回YouTubeで見つけることができませんでした。

 

まとめ

今回は Ibraim Odža について、その踊りの地理歴史的背景と種類、歌に込められた意味、そして拍の取り方はフレキシブルで拍子記号では11拍子から16拍子までさまざまに表記されることをいくつかの事例で紹介しました。リズムに慣れないと難しい部類の踊りと演奏ですが、うまく乗っかることができれば他にはない新鮮な心地よさが味わえると思います。

 

ところで、冒頭で紹介した動画では結婚式で Ibraim Odža が踊られるという設定でした。実際他の動画でも結婚式で踊られているシーンは普通に見られます。しかし歌詞の内容は結婚式にふさわしいかというと、これはどうなのでしょうかね。

ただ、これは私自身の感想ですが、このような歌が高らかに歌えるのは良い時代であることの裏返しのようにも思えます。冒頭の動画では舞台の背景写真に「74 GODINI SLOBODEN VELES(74年間の自由 ヴェレス)」という題字が書かれてありました。2018年の動画であることから、第二次世界大戦終戦後から(チトー大統領の下で*8)ヴェレスが自由になったということを意味しているのかもしれません。戦後復興期の1950年代にこの演奏と踊りが研究記録や音声記録(レコード)に残ったというのも、もしかしたら偶然ではないのかもしれません。

 

最後に1曲、今回見つけた音源の中で最も古いと思われるものを紹介します。マケドニア・スペリー・レコード社*9から1951年にリリースされたSperry 10インチ赤ラベルシリーズの一枚。マケドニアなのにユーゴスラビアの Jugoton レーベルからではない珍しいレコードです。レコードのラベル紙には「ラジオ・スコピエのチャルギアによる演奏」であることが記されています。

メロディを聴いていると拍子がわからなくなりそうですが、パーカッションは12拍子をしっかりキープしています。レコードのノイズも含めて、当時の情景を彷彿とさせる非常に味わい深い演奏です。■

 

Ibraim Odza (Makedonsko narodno oro)

Čalgija Orkestar Radio Skopje, Sperry E1-KB-1520 (1951)
(動画:Steven Kozobarich (2012))

 

今回紹介した音源

Pesnata Ibraim Odža

Pesnata Ibraim Odža

  • Alekso “Alo” Tončov, Mustafa Eminov, Trajče Našev & Zdrave Stafilov
  • ワールド
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes
Ibraim Odza

Ibraim Odza

  • Ljubojna
  • ワールド
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes
Ibraim Odza

Ibraim Odza

  • Pangeo
  • ワールド
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes
Ibraim Odza

IBRAIM ODZA

  • Čalgija Orkestar Radio Skopje
  • Sperry E1-KB-1520 (1951)
  • Free Download, Borrow, and Streaming via Internet Archive.org
  • Internet Archive [link]

*1:チャルギア(Čalgija):トルコ風の音楽様式でマケドニアの伝統的なリズムの曲を演奏する音楽ジャンルで、特にヴェレス、オフリド、ビトラ、テッサロニキなどの都市で発達したことから「古都の音楽」とも呼ばれます。ブルガリアの音楽ジャンルに「チャルガ(Chalga)」と呼ばれるポップフォークのジャンルがありますが、名前が似ているだけで中身は全然違います。

*2:Б. ИЛИЌ: "РЕЛЕВАНТНИ ЕТНОКОРЕОЛОШКИ И ЕТНОЛОШКИ КАРАКТЕРИСТИКИ НА ОРОТО ИБРАИМ ОЏА, ПРЕТПОСТАВКА ЗА СЛЕДЕЊЕ НА РЕГИОНАЛНАТА ИДЕНТИФИКАЦИЈА," ГОДИШЕН ЗБОРНИК 2012, ФАКУЛТЕТ ЗА МУЗИЧКА УМЕТНОСТ, УНИВЕРЗИТЕТ „ГОЦЕ ДЕЛЧЕВ“ – ШТИП (ゴツェ・デルチェフ大学シュティプ校音楽芸術学部), vol.3 No.3, 2012, pp.169-179 (ISSN 1857-8659). [link]

*3:Smithsonian Folkways Recordings。アメリカの国立スミソニアン博物館を運営するスミソニアン協会の非営利レコードレーベル。音声記録、保存、共有、教育資料の普及を通じて、世界の文化の多様性と理解の促進、自国の文化遺産に関わり他者の文化遺産への認識と評価を高めることなどをミッションとする。[link]

*4:《mp3音声による解説》Dragi Spasovski, Episode 6: Bog da go bie Ibraim-odža, Macedonian Postcards, IZVOR MUSIC. [link]

*5:Благица ИЛИЌ, 前掲書, p.171.

*6:Pesna.org の「Bog da go bie toj Ibraim Odzha」の2つ目の歌詞参照。[link]

*7:Vallja e Ibrahim Hoxhës - Ibraim Odža - Folk Dance Musings Andrew Carnie's Folk Dance Instructions [link]

*8:ヴェレスは1996年までユーゴスラビアの指導者ヨシップ・ブロズ・チトーにちなんでティトフ・ヴェレス(Titov Veles)と呼ばれていました。

*9:Sperry Record。ただしレコード盤の生産はアメリカ。詳細は The Endendijk Collection [link] をご参照のこと。

Na 'Tane To 21 ~ 誤解と確執のレベティコの大ヒット曲 ~(ギリシャ)

今回紹介する曲はギリシャの「Na 'Tane To 21(ナ・タネ・ト・イコシエナ)」です。ギリシャの音楽ジャンルのレベティコの1970年代リバイバル期のヒット曲です。

 

Γιώργος Νταλάρας - Να 'Τανε Το 21
George Dalaras YouTube Channel

Giórgos Ntaláras, Na 'Tane To 21, MINOS-EMI 1970, Greece

 

 

ギリシャのポピュラー音楽にレベティコ(Rebetiko / Rempetiko)と呼ばれる音楽ジャンルがあります。ギリシャのブルースと呼ばれることもある都市部の大衆歌謡で、アナトリア半島(トルコ)とギリシャの音楽の伝統が融合して生まれました。演奏はマンドリンに似たギリシャの弦楽器のブズーキまたはバグラマで特徴づけられます。

このスタイルの出現については諸説ありますが、起源を1920年代とすることに専門家の意見は一致します。生活に困窮した農民たちの都市への流入と希土戦争*1の終わりの1922年にアナトリア半島(トルコ)から追い出されたギリシャ人難民らの大量移住によってもたらされたと考えられています*2。難民は失業率上昇の原因としてギリシャ社会から排斥されました。その結果として、深い喪失感を伝える「嘆きの詩」がレベティコの歌詞に生まれます。 当初は半犯罪的なサブカルチャーを構築しますが、次第にギリシャの労働者階級に溶け込み反「体制」の表現へと進化して行きました*3

1930年代にはヨアニス・メタクサス独裁政権*4(1936~1941年)に始まるギリシャの独裁政府に対する抵抗運動として、1940年代にはナチス占領に対するギリシャの抵抗運動(1941年~1944年)として人気があり、そしてギリシャ内戦*5(1946年~1949年)では共産主義パルチザンの間でも人気がありました。しかし1950年代後半には上流階級に受け入れられた「アルコントレベティコ(上品なレベティコ)」を残して衰退してしまいます*6

その一度消滅しかけたレベティコが1960年代、クーデターによる軍事独裁政権*7の時代(1967-1974)と前後して復活を遂げます。レベティコの音楽は政権への不満を表現し、それがアテネ工科大学での学生蜂起*8(1973年)に発展しました。そして軍事政権の終わった1974年以降にはさらに多くのリバイバル・グループやソロ歌手が現れ、ギリシャにおけるレベティコの文化的意義が再評価されました。今日レベティコはギリシャの代表的な音楽ジャンルとして国際的に認知されています。

 

今回のテーマはこのレベティコ・リバイバル期にギリシャ全土で様々な論争を巻き起こした「Na 'Tane To 21」というレベティコのヒット曲を掘り下げます。

 

Χασάπικο 2ο ΓΕΛ Αχαρνών . 25η Μαρτίου
Elias Michalis, 2012

「Na 'Tane To 21」に合わせてギリシャのナショナルダンスとして知られるハサピコス(Hasapikos、肉屋の踊り)が踊られている一例。ハサピコスの詳細に関しては以下のWebページ(「世界の民族の音楽と踊り」)に説明や用語が多数示されています。ご参考まで。

 

 

楽曲「Na 'Tane To 21」は1969年にオリジナルが制作され翌1970年にリリースされました。作曲は20世紀で最も重要なギリシャの作曲家と称されるスタヴロス・クユムジス(Stávros Kougioumtzís)、作詞はジャーナリストでもあった作詞家ソティア・ツォトゥ(Sótia Tsótou)。たくさんの有名歌手によってカバーされましたが、初演は冒頭のYouTubeで紹介した当時弱冠20歳のヨルゴス・ダララス(Giórgos Ntaláras)、後にギリシャの音楽文化を代表する著名なミュージシャンの一人です。ギリシャの商業音楽のパイオニア的レーベルのMinosから1970年1月にシングル・リリースされました。

曲のタイトル「Na 'Tane To 21」は直訳すると「『21』だったなら」。ギリシャ語の「To」は定冠詞にあたり、英語で言えば「the 21」、すなわち何か特定の意味のある『21』を示唆します。「21」に「'」がついて「'21」と書くこともあります。「'21」と書くと「2021年」あるいは「1921年」を想像しそうですが、歌詞の文脈からは200年前の「1821年」が読み取れます。以下、和訳については必要に応じて『21』という書き方も用います。

後半の説明のために歌詞の一部を引用*9します。

 

Mou xanárchontai éna éna chrónia doxasména
Na 'tane to 21 na 'rthei mia stigmí
Na pernáo kavaláris sto platý t' alóni
Kai me ton Kolokotróni na 'pina krasí

Na polemáo tis méres sta kástra
Kai to spathí mou na piánei fotiá
Kai na kratáo tis nýchtes me t' ástra
Mia Tourkopoúla (omorfoúla) ankaliá

Mou xanárchontai éna éna chrónia doxasména
Na 'tane to 21 na 'rthei mia vradiá

. . . 

詞: Sótia Tsótou
出典:Γιώργος Νταλάρας - Να 'Τανε Το 21 - YouTube [link]

 

私のところへ戻ってくる、一つ一つ栄光の年月が
『21』だったなら、一瞬戻ってこれたなら
馬で駆け抜けて、広いを脱穀場を
そしてコロコトロニスとともにワインを飲んだだろう

日々城で戦い
そして私の剣は炎を掴む
そして星夜に抱きしめる
トルコの女の子(美しい女の子)を

私のところへ戻って来る、一つ一つ栄光の年月が
『21』だったなら、ひと晩戻ってこれたらなら

. . .

 

上記の歌詞中の重要キーワードは「Kolokotróni」。すなわち、オスマン帝国に対する抵抗活動そしてギリシャの独立戦争を指導した将軍テオドロス・コロコトロニス(Theódoros Kolokotrónis)です。それゆえ曲名の意味ありげな『21』はギリシャ独立戦争が起こった1821年を示唆していると一般に言われています。歌はコロコトロニスへのあこがれとロマンチックな願望を歌ったもので、自分がコロコトロニスとともに戦う戦士に喩えている様子がうかがえます。

 

Theodore Kolokotronis, 1853.

Dionysios Tsokos, Public domain, via Wikimedia Commons [link]

 

この歌で特に興味深いのは、政治思想的に全く異なる二つの解釈ができるというところです。

『21』は年の上位二ケタ「18」が明記されていなかったため、「1821年」以外に「4月21日」を連想させることもできました。前述したように当時のギリシャはクーデターで誕生した軍事独裁政権の真っ只中。軍事政権は芸術に対し厳しい検閲を行っていましたが、クーデターの起こった1967年4月21日を連想させるこの曲については自由な流通を認めたのです。軍事政権の支持者たちはこの曲を政権側の曲として受け取りました。

一方、レジスタンス支持者たちはこの曲を反政権側の曲として受け止めました。オスマン帝国支配への抵抗の末に起こったギリシャ独立戦争に自らの抵抗運動を重ねたレジスタンス支持者たちは、『21』という寓意的な言葉で検閲官を混乱させることに初めて成功したレジスタンス・ソングと捉えました。

 

作曲したスタヴロス・クユムジス自身、このような対立する二つの解釈に困惑しました。クユムジスは著書「雨のような年月(Chrónia san vrochí)」の中で、

「私たちは何を書いたんだ?」と作詞したソティア・ツォトゥに電話で尋ねた。彼女は「パリでメルクーリ*10がこの曲を歌うの、ここで皆が言っていることを聞いてみて」と答え、それで終わりだった。重要なのは、全ギリシャがこの歌を歌ったということであり、独裁者の歌であるはずがない ...

と綴っています。ツォトゥの巧みな歌詞が誤解と論争を呼び、結果としてギリシャのあらゆる層を巻き込んでの大ヒットにつながりました。

 

レコード・リリースのタイミングもヒットに大きく影響しました。ダララスの初版レコーディングは1969年末頃には済んでいました。しかしレコード会社のミノス(Minos)はこの曲のヒットを信じておらず、レコード盤の生産・リリースを渋っていました。

一方、このレコーディング音源を作曲者のクユムジスからいち早く聴かせてもらった有名歌手のグリゴリス・ビティコツィス(Grigóris Bithikótsis)は、この曲が売れると確信し自分もこの曲をカバーすることをクユムジスに告げます。

ダララスのレコード・リリースの話が一向に進まない中、ビティコツィスがレコード会社コロムビア(Columbia)と組んでレコーディングを始めたとの情報がミノスとクユムジスのもとに届きます。ミノスは慌ててレコード生産に取り掛かりますが、ラベルに「初演」と書き加える作業が追いつきませんでした。

その結果、1970年1月に二つのバージョンがほぼ同時にリリースされ大騒ぎになりました。クユムジスに見出された若きダララスと大物ビティコツィスの対決は「どちらが上手いか」の論争を呼び、曲のヒットにさらに拍車をかけました。

 

Na 'Tane To 21

Grigoris Bithikotsis - 14 Hrises Epitihies

 

ビティコツィスは事前にクユムジスにことわりもなく、メロディを低音にし、正しい調で歌わず、さらにはイントロ部分(軍隊行進曲のフレーズ)にトランペットまで加えていました。

このバージョンが気に入らないクユムジスは腹を立てていました。「最初に何かを置かなければ・・・。」このとき彼はフルートを思いつき、ダララスの3度目のレコーディングの際にメロディに加えました。

冒頭で紹介したダララスの音源はこのときのもので、初版から2か月後の1970年3月にリリースされたダララスのLPアルバムに収録されたものです。イントロを飾るあのキャッチ―なフルートの行進曲フレーズはこうして誕生しました。

 

 

今回はギリシャのレベティコのヒット曲「Na 'tane to 21」を紹介しました。当時の社会的背景とレコードのヒットにつながったさまざまな要因についてまとめました。

この曲はいろいろと世間を騒がせたせいか、他にもレコードの売り上げ枚数やカバーしたアーティストの人数、クユムジスの妻エミリアへのインタビュー、クユムジスとダララスの記者会見談話、ビティコツィスとレコード会社のコロムビアに関する後日談など、ワイドショー的な話題が尽きません。今回は極力音楽そのものに関係する話題だけに絞りましたが、もし周辺の出来頃にも興味がありましたら下の出典などを参照してみてください(ギリシャ語ですが、Google翻訳だけでもそこそこ読めるかと・・・)。

 

ところで「Na 'tane to 21」は軍事政権によって一度発売禁止にされています。理由は上記の歌詞の「Kai na kratáo tis nýchtes me t' ástra mia Tourkopoúla ankaliá(そして星夜にトルコの女の子を抱きしめる)」の一節に対し、トルコ領事館から「トルコの女性はそんなに軽くない」と抗議されたのだとか。その後「Tourkopoúla(トゥルコプーラ、トルコの女の子)」は「omorfoúla(オモルフーラ、美しい女の子)」に修正され再レコーディングされました。今回YouTubeで紹介したダララスとビティコツィスの各音源はどちらも歌詞等の修正がなされた後のバージョンです。

そこで最後の一曲はトルコから。実はトルコにも「Na 'tane to 21」のカバー曲があったのです。歌手セミラミス・ペッカン(Semiramis Pekkan)の1972年の曲「Aşk Olsun Sana Sevgilim(アシュク・オルスン・サナ・セヴギリム(あなたに愛がありますように、私の最愛の人))」です。カバー曲と言っても題名や歌詞など中身はまったく異なります。

 

Aşk Olsun Sana Sevgilim

Semiramis Pekkan, Semiramis, Odeon 1972, Turkey

 

オスマン帝国への抵抗やトルコ領事館からの抗議など、トルコにとってはあまり印象の良くないこの「Na 'tane to 21」を、なんとトルコの女性歌手までもがカバーしていたとは。トルコの聴衆はこのような背景があったことを知っていたのでしょうか?これもまたワイドショー的には面白い話ではあります。■

 

今回紹介した曲

Natane To 21

Natane To 21

  • Γιώργος Νταλάρας
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
Na 'Tane To 21 (feat. Voula Gika)

Na 'Tane To 21 (feat. Voula Gika)

  • Grigoris Bithikotsis
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
Aşk Olsun Sana Sevgilim

Aşk Olsun Sana Sevgilim

  • Semiramis Pekkan
  • ポップ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

 

出典(今回のテーマ構成において主要なもののみ。これら以外に参考にした文献は脚注に記す。)

*1:希土戦争 (1919年-1922年) - Wikipedia日本語版 [link]

*2:ギリシャ魂のブルース、レベティコ - LE Monde diplomatique日本語版 [link]

*3:Rebetiko and Revolution: The Musical Subculture of Greece - BLOGS, ONLINE CONTENT, THE GLOBALIST NOTEBOOK, Yale University [link]

*4:八月四日体制 - Wikipedia日本語版 [link]

*5:ギリシャ内戦 - Wikipedia日本語版 [link]

*6:Music of Greece - Wikipedia [link]

*7:ギリシャ軍事政権 - Wikipedia日本語版 [link]

*8:ポリテクニオン・デーとギリシャの現状 - 地球の歩き方web [link]

*9:著作権のため全文の記述は控え必要部分のみを引用するに止めます。冒頭のYouTube動画(歌手ヨルゴス・ダララス本人のYouTubeチャンネル)の説明欄に歌詞全文と著作権情報が掲載されていますので、歌詞利用の場合はそちらをご参照ください。

*10:メリナ・メルクーリ。ギリシャ・アテネ出身の女優、歌手、政治家。代表作に「日曜はダメよ」(1960)、カンヌ国際映画祭女優賞受賞、アカデミー主題歌賞受賞。

Razgranala Grana Jorgovana ~プリズレンの銀細工~(セルビア民謡)

今回のテーマは「Razgranala Grana Jorgovana(ラズグラナラ・グラナ・ヨルゴヴァナ)」、コソボのプリズレンにおける伝統的なセルビア民謡です。

 

最初の曲、演奏は民俗アンサンブルの一つの Ansambl Venac(アンサンブル・ヴェナツ)、歌はソリスト Tamara Kapetanović(タマラ・カペタノヴィッチ)です。

 

TAMARA Kapetanović - Razgranala grana jorgovana
THE_VISION_GRACANICA (2022)

 

民俗アンサンブル Venac は、セルビアに二つ存在するプロ民俗音楽舞踊アンサンブルの一つ。コソボ共和国の首都プリシュティナ南部のグラチャニッツァを活動拠点にしています。Venac はコソボ・メトヒヤ地域*1におけるセルビアの国家遺産、伝統、文化、民間伝承の保存、そして若い世代へ知識とスキルのすべてを伝えることを目的に、歌とパフォーマンスの活動をしています。*2

 

本題の前に、少し脱線してコソボにおける民族事情に触れておきます。

コソボにおけるセルビア人とアルバニア人の問題については以前「【深掘り】Martesa / Kosovo」の回で取り上げました。外務省の基礎データ*3によれば、2021年現在コソボの人口179万人(2021年、世銀)のうち92%はアルバニア人で占められており、セルビア人は5%とのこと。歴史的な背景もさることながら、近年のコソボにおけるアルバニア人の増加は、アルバニア系住民の出生率の高さとコソボ紛争での非アルバニア系難民の流出も一因とされています。詳細は下記リンクをご参照ください。

 

 

ということで、今回はコソボにおけるセルビア人の伝承民謡という、少し微妙なテーマを扱います。このような話題の場合、情報源には民族主義(ナショナリズム)的意図を持った文脈も多分に含まれてきますので、その点を踏まえた上でできるだけ本来の民俗文化(フォークロア)の方に焦点を絞りたいと思います。

 

さて本題に戻ります。

Razgranala Grana Jorgovana は上の動画のようにとても優し気な3拍子の歌です。今日セルビアでは童謡、子守歌、そして子供たちの楽器練習にも広く用いられているようです。

またこの歌は「プリズレンスキ・フィリグラン(Prizrenski filigran、プリズレンの銀細工)」*4とも呼ばれるそう。フィリグランとは細い銀線を加工して作られる宝飾品で、プリズレンの伝統工芸の一つです。繊細で美しい銀細工の喩えは、この歌が何世紀にもわたってこの土地に大切に受け継がれてきたことを物語っているようです。

 

 

歌詞は以下の通りです。各行2回ずつの繰り返しです。上の動画は4番までですが、一般的には6番まであります。

 

Razgranala grana jorgovana.
Oj, lane Milane, Grana jorgovana.

Pod njom sedi lepa Julijana.
Oj, lane Milane, Lepa Julijana.

A pred nju je đerđef od merdžana.
Oj, lane Milane, đerđef od merdžana.

Na đerđefu svilena marama.
Oj, lane Milane, svilena marama.

Na marami svila đunđulija*.
Oj, lane Milane, svila đunđulija*.

U ruci joj igla od biljura.
Oj, lane Milane, igla od biljura.

* 意味不明

出典:Wikisource.org

 

花が咲きました、ライラックの枝。
ああ、愛しいミランよ、ライラックの枝。

の下に座っています、美しいユリヤナ。
ああ、愛しいミランよ、美しいユリヤナ。

そして彼女の前にあります、珊瑚の刺繍枠。
ああ、愛しいミランよ、珊瑚の刺繍枠。

刺繍枠の上に 絹のスカーフ。
ああ、愛しいミランよ、絹のスカーフ。

スカーフの上に ?の絹糸。
ああ、愛しいミランよ、?の絹糸。

彼女の手の中には 水晶の針。
ああ、愛しいミランよ、水晶の針。

 

 

「Oj, lane Milane」の「lane」は直接には子鹿を意味し、親愛な子供(dear child)を比喩的に表現します。ちなみにミラン(Milan)は男の子、ユリヤナ(Julijana)は女の子の名前です。

3番以降の歌詞は何かの喩えかファンタジーでしょう。珊瑚の刺繍枠、絹のスカーフ、そして水晶の針、いずれも簡単には手に入らない高価な物ばかりです(ジュンジュリヤ(đunđulija)は何かさっぱりわかりませんが)。

 

次に童謡の例を紹介します。セルビア語の子供向け YouTube チャンネル HeyKids.rs の Razgranala Grana Jorgovana です。(曲は前半だけで終わり。後半は同じメロディのカラオケです。)

 

Razgranala Grana Jorgovana + karaoke 🌸 Pesmice za bebe - HeyKids
HeyKids - Pesme Za Decu (2019)

 

CGのシーンは現代的にアレンジされており、民謡の雰囲気は少し異なるかもしれません。「ミラン、ユリヤナがライラックの木の下に座っているよ」といったシーン設定でしょうか。童謡の場合は2番で終わるのが普通のようです。

 

 

さてこの民謡、私は以前から(コソボ独立よりも前から)知ってはいたのですが、今までずっと7拍子の曲と思い込んでいました。今回は当初「セルビアの7拍子の民謡」を紹介するつもりでこの曲の情報収集を始めました。

ところが実際 YouTube で調べてみると、どれも3拍子の映像や音源ばかりで、7拍子バージョンが不思議なくらい見つかりません。どうもセルビアの人々の間では3拍子で取るのが一般的なようなのです。

そんな中、ようやく見つけた7拍子のバージョンの一つを次に紹介します。セルビア公共放送 RTS の2018年の公式ビデオから。歌はセルビア人音楽家 Ranko Šemić(ランコ・シェミッチ)です。

 

RAZGRANALA GRANA JORGOVANA – Ranko Šemić
RTS Najlepše narodne pesme - Zvanični kanal (2018)

 

セルビアというより、どっぷりマケドニアのような雰囲気の映像でした。まあでも7拍子バージョンもあるにはあるようで、ちょっと安心しました。

 

少し源流を遡ってみましょう。4つ目の曲は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代の1982年の Razgranala grana jorgovana。歌は Jordan Nikolić(ヨルダン・ニコリッチ)。RTS の公式音源です。

 

Jordan Nikolic - Razgranala grana jorgovana - (Audio 1982) HD
PGP RTS - Zvanični Kanal (2016)

 

この Jordan Nikolic の歌あたりがよく知られた代表的なバージョンのようです。

さて、この曲は何拍子でしょう?

ほぼ7拍子に聴こえます。しかし先ほどの Ranko Šemić の歌と比べると1拍目がわずかに短く、少し急いているような感じがします。3拍子のように聴こえなくもありません。あえて言うならば3/4拍子と7/8拍子の中間くらいでしょうか。

 

もう一つ、さらに遡って1978年にリリースされたモダンフォークのバージョンを。タイトルが異なっていてうっかり見落としそうになりましたが、拾い上げました。1972年結成の Ansambl Daniluška(アンサンブル・ダニルシュカ)の Savila Se Grana Jorgovana(サヴィラ・セ・グラナ・ヨルゴヴァナ)です。

 

Ansambl Daniluska - Savila se grana jorgovana - (Audio)
Ansambl "Daniluška", Za Svakog Ponešto, Jugoton – LSY - 61370, Yugoslavia (1978)

 

疲れた時に聴くと癒されそうな、知らないのに"何か懐かしい"雰囲気のフォークソングです。驚いたことに、きっちり3拍子でした。

 

 

私は今までこの Razgranala grana jorgovana は7拍子があたりまえと思い込んでいました(7拍子もあるにはありました)。しかしセルビアの人々には昔から3拍子でも知られていたことが、今回調べてみてわかりました。

アルバニア人やマケドニア人も多いプリズレンでは変拍子の民謡が特に珍しいわけではありません。しかしこの Razgranala grana jorgovana に関しては、もしかしたら3拍子の方が普通なのかもしれません。

民族的に機微な事情もあり結論づけるにはまだ早すぎますが、おもしろそうな話題の端緒が発掘できたのではないかと思います。

 

最後に一曲、ジャズ・バージョンの Razgranala grana jorgovana で締めましょう。1980年のジャズ・オーケストラの演奏、この曲も RTS の公式音源です。

 

Jazz Orkestar RTB - Razgranala grana jorgovana - (Audio 1980) HD
PGP RTS - Zvanični Kanal (2016)

 

一日の終わりに聴きたい安らぎの一曲。ばっちり3拍子でした。■

 

今回紹介した曲

Razgranala grana jorgovana

Razgranala grana jorgovana

  • Ranko Semic
  • シンガーソングライター
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes
Savila Se Grana Jorgovana

Savila Se Grana Jorgovana

  • Ansambl 'Daniluška'
  • ワールド
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

*1:セルビアでは現在もコソボの独立を認めていないため、コソボ共和国ではなくコソボ・メトヒヤ(Kosovo - Methija)と呼ぶ。

*2:Ansambl Venac (英語)[link]

*3:コソボ基礎データ|外務省 [link]

*4:Разгранала грана јоргована - ИН4С портал [link]