Balkan Folk Music Discography

バルカン半島~黒海周辺地域の音楽と踊りを深掘りするブログ

Na 'Tane To 21 ~ 誤解と確執のレベティコの大ヒット曲 ~(ギリシャ)

今回紹介する曲はギリシャの「Na 'Tane To 21(ナ・タネ・ト・イコシエナ)」です。ギリシャの音楽ジャンルのレベティコの1970年代リバイバル期のヒット曲です。

 

Γιώργος Νταλάρας - Να 'Τανε Το 21
George Dalaras YouTube Channel

Giórgos Ntaláras, Na 'Tane To 21, MINOS-EMI 1970, Greece

 

 

ギリシャのポピュラー音楽にレベティコ(Rebetiko / Rempetiko)と呼ばれる音楽ジャンルがあります。ギリシャのブルースと呼ばれることもある都市部の大衆歌謡で、アナトリア半島(トルコ)とギリシャの音楽の伝統が融合して生まれました。演奏はマンドリンに似たギリシャの弦楽器のブズーキまたはバグラマで特徴づけられます。

このスタイルの出現については諸説ありますが、起源を1920年代とすることに専門家の意見は一致します。生活に困窮した農民たちの都市への流入と希土戦争*1の終わりの1922年にアナトリア半島(トルコ)から追い出されたギリシャ人難民らの大量移住によってもたらされたと考えられています*2。難民は失業率上昇の原因としてギリシャ社会から排斥されました。その結果として、深い喪失感を伝える「嘆きの詩」がレベティコの歌詞に生まれます。 当初は半犯罪的なサブカルチャーを構築しますが、次第にギリシャの労働者階級に溶け込み反「体制」の表現へと進化して行きました*3

1930年代にはヨアニス・メタクサス独裁政権*4(1936~1941年)に始まるギリシャの独裁政府に対する抵抗運動として、1940年代にはナチス占領に対するギリシャの抵抗運動(1941年~1944年)として人気があり、そしてギリシャ内戦*5(1946年~1949年)では共産主義パルチザンの間でも人気がありました。しかし1950年代後半には上流階級に受け入れられた「アルコントレベティコ(上品なレベティコ)」を残して衰退してしまいます*6

その一度消滅しかけたレベティコが1960年代、クーデターによる軍事独裁政権*7の時代(1967-1974)と前後して復活を遂げます。レベティコの音楽は政権への不満を表現し、それがアテネ工科大学での学生蜂起*8(1973年)に発展しました。そして軍事政権の終わった1974年以降にはさらに多くのリバイバル・グループやソロ歌手が現れ、ギリシャにおけるレベティコの文化的意義が再評価されました。今日レベティコはギリシャの代表的な音楽ジャンルとして国際的に認知されています。

 

今回のテーマはこのレベティコ・リバイバル期にギリシャ全土で様々な論争を巻き起こした「Na 'Tane To 21」というレベティコのヒット曲を掘り下げます。

 

Χασάπικο 2ο ΓΕΛ Αχαρνών . 25η Μαρτίου
Elias Michalis, 2012

「Na 'Tane To 21」に合わせてギリシャのナショナルダンスとして知られるハサピコス(Hasapikos、肉屋の踊り)が踊られている一例。ハサピコスの詳細に関しては以下のWebページ(「世界の民族の音楽と踊り」)に説明や用語が多数示されています。ご参考まで。

 

 

楽曲「Na 'Tane To 21」は1969年にオリジナルが制作され翌1970年にリリースされました。作曲は20世紀で最も重要なギリシャの作曲家と称されるスタヴロス・クユムジス(Stávros Kougioumtzís)、作詞はジャーナリストでもあった作詞家ソティア・ツォトゥ(Sótia Tsótou)。たくさんの有名歌手によってカバーされましたが、初演は冒頭のYouTubeで紹介した当時弱冠20歳のヨルゴス・ダララス(Giórgos Ntaláras)、後にギリシャの音楽文化を代表する著名なミュージシャンの一人です。ギリシャの商業音楽のパイオニア的レーベルのMinosから1970年1月にシングル・リリースされました。

曲のタイトル「Na 'Tane To 21」は直訳すると「『21』だったなら」。ギリシャ語の「To」は定冠詞にあたり、英語で言えば「the 21」、すなわち何か特定の意味のある『21』を示唆します。「21」に「'」がついて「'21」と書くこともあります。「'21」と書くと「2021年」あるいは「1921年」を想像しそうですが、歌詞の文脈からは200年前の「1821年」が読み取れます。以下、和訳については必要に応じて『21』という書き方も用います。

後半の説明のために歌詞の一部を引用*9します。

 

Mou xanárchontai éna éna chrónia doxasména
Na 'tane to 21 na 'rthei mia stigmí
Na pernáo kavaláris sto platý t' alóni
Kai me ton Kolokotróni na 'pina krasí

Na polemáo tis méres sta kástra
Kai to spathí mou na piánei fotiá
Kai na kratáo tis nýchtes me t' ástra
Mia Tourkopoúla (omorfoúla) ankaliá

Mou xanárchontai éna éna chrónia doxasména
Na 'tane to 21 na 'rthei mia vradiá

. . . 

詞: Sótia Tsótou
出典:Γιώργος Νταλάρας - Να 'Τανε Το 21 - YouTube [link]

 

私のところへ戻ってくる、一つ一つ栄光の年月が
『21』だったなら、一瞬戻ってこれたなら
馬で駆け抜けて、広いを脱穀場を
そしてコロコトロニスとともにワインを飲んだだろう

日々城で戦い
そして私の剣は炎を掴む
そして星夜に抱きしめる
トルコの女の子(美しい女の子)を

私のところへ戻って来る、一つ一つ栄光の年月が
『21』だったなら、ひと晩戻ってこれたらなら

. . .

 

上記の歌詞中の重要キーワードは「Kolokotróni」。すなわち、オスマン帝国に対する抵抗活動そしてギリシャの独立戦争を指導した将軍テオドロス・コロコトロニス(Theódoros Kolokotrónis)です。それゆえ曲名の意味ありげな『21』はギリシャ独立戦争が起こった1821年を示唆していると一般に言われています。歌はコロコトロニスへのあこがれとロマンチックな願望を歌ったもので、自分がコロコトロニスとともに戦う戦士に喩えている様子がうかがえます。

 

Theodore Kolokotronis, 1853.

Dionysios Tsokos, Public domain, via Wikimedia Commons [link]

 

この歌で特に興味深いのは、政治思想的に全く異なる二つの解釈ができるというところです。

『21』は年の上位二ケタ「18」が明記されていなかったため、「1821年」以外に「4月21日」を連想させることもできました。前述したように当時のギリシャはクーデターで誕生した軍事独裁政権の真っ只中。軍事政権は芸術に対し厳しい検閲を行っていましたが、クーデターの起こった1967年4月21日を連想させるこの曲については自由な流通を認めたのです。軍事政権の支持者たちはこの曲を政権側の曲として受け取りました。

一方、レジスタンス支持者たちはこの曲を反政権側の曲として受け止めました。オスマン帝国支配への抵抗の末に起こったギリシャ独立戦争に自らの抵抗運動を重ねたレジスタンス支持者たちは、『21』という寓意的な言葉で検閲官を混乱させることに初めて成功したレジスタンス・ソングと捉えました。

 

作曲したスタヴロス・クユムジス自身、このような対立する二つの解釈に困惑しました。クユムジスは著書「雨のような年月(Chrónia san vrochí)」の中で、

「私たちは何を書いたんだ?」と作詞したソティア・ツォトゥに電話で尋ねた。彼女は「パリでメルクーリ*10がこの曲を歌うの、ここで皆が言っていることを聞いてみて」と答え、それで終わりだった。重要なのは、全ギリシャがこの歌を歌ったということであり、独裁者の歌であるはずがない ...

と綴っています。ツォトゥの巧みな歌詞が誤解と論争を呼び、結果としてギリシャのあらゆる層を巻き込んでの大ヒットにつながりました。

 

レコード・リリースのタイミングもヒットに大きく影響しました。ダララスの初版レコーディングは1969年末頃には済んでいました。しかしレコード会社のミノス(Minos)はこの曲のヒットを信じておらず、レコード盤の生産・リリースを渋っていました。

一方、このレコーディング音源を作曲者のクユムジスからいち早く聴かせてもらった有名歌手のグリゴリス・ビティコツィス(Grigóris Bithikótsis)は、この曲が売れると確信し自分もこの曲をカバーすることをクユムジスに告げます。

ダララスのレコード・リリースの話が一向に進まない中、ビティコツィスがレコード会社コロムビア(Columbia)と組んでレコーディングを始めたとの情報がミノスとクユムジスのもとに届きます。ミノスは慌ててレコード生産に取り掛かりますが、ラベルに「初演」と書き加える作業が追いつきませんでした。

その結果、1970年1月に二つのバージョンがほぼ同時にリリースされ大騒ぎになりました。クユムジスに見出された若きダララスと大物ビティコツィスの対決は「どちらが上手いか」の論争を呼び、曲のヒットにさらに拍車をかけました。

 

Na 'Tane To 21

Grigoris Bithikotsis - 14 Hrises Epitihies

 

ビティコツィスは事前にクユムジスにことわりもなく、メロディを低音にし、正しい調で歌わず、さらにはイントロ部分(軍隊行進曲のフレーズ)にトランペットまで加えていました。

このバージョンが気に入らないクユムジスは腹を立てていました。「最初に何かを置かなければ・・・。」このとき彼はフルートを思いつき、ダララスの3度目のレコーディングの際にメロディに加えました。

冒頭で紹介したダララスの音源はこのときのもので、初版から2か月後の1970年3月にリリースされたダララスのLPアルバムに収録されたものです。イントロを飾るあのキャッチ―なフルートの行進曲フレーズはこうして誕生しました。

 

 

今回はギリシャのレベティコのヒット曲「Na 'tane to 21」を紹介しました。当時の社会的背景とレコードのヒットにつながったさまざまな要因についてまとめました。

この曲はいろいろと世間を騒がせたせいか、他にもレコードの売り上げ枚数やカバーしたアーティストの人数、クユムジスの妻エミリアへのインタビュー、クユムジスとダララスの記者会見談話、ビティコツィスとレコード会社のコロムビアに関する後日談など、ワイドショー的な話題が尽きません。今回は極力音楽そのものに関係する話題だけに絞りましたが、もし周辺の出来頃にも興味がありましたら下の出典などを参照してみてください(ギリシャ語ですが、Google翻訳だけでもそこそこ読めるかと・・・)。

 

ところで「Na 'tane to 21」は軍事政権によって一度発売禁止にされています。理由は上記の歌詞の「Kai na kratáo tis nýchtes me t' ástra mia Tourkopoúla ankaliá(そして星夜にトルコの女の子を抱きしめる)」の一節に対し、トルコ領事館から「トルコの女性はそんなに軽くない」と抗議されたのだとか。その後「Tourkopoúla(トゥルコプーラ、トルコの女の子)」は「omorfoúla(オモルフーラ、美しい女の子)」に修正され再レコーディングされました。今回YouTubeで紹介したダララスとビティコツィスの各音源はどちらも歌詞等の修正がなされた後のバージョンです。

そこで最後の一曲はトルコから。実はトルコにも「Na 'tane to 21」のカバー曲があったのです。歌手セミラミス・ペッカン(Semiramis Pekkan)の1972年の曲「Aşk Olsun Sana Sevgilim(アシュク・オルスン・サナ・セヴギリム(あなたに愛がありますように、私の最愛の人))」です。カバー曲と言っても題名や歌詞など中身はまったく異なります。

 

Aşk Olsun Sana Sevgilim

Semiramis Pekkan, Semiramis, Odeon 1972, Turkey

 

オスマン帝国への抵抗やトルコ領事館からの抗議など、トルコにとってはあまり印象の良くないこの「Na 'tane to 21」を、なんとトルコの女性歌手までもがカバーしていたとは。トルコの聴衆はこのような背景があったことを知っていたのでしょうか?これもまたワイドショー的には面白い話ではあります。■

 

今回紹介した曲

Natane To 21

Natane To 21

  • Γιώργος Νταλάρας
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
Na 'Tane To 21 (feat. Voula Gika)

Na 'Tane To 21 (feat. Voula Gika)

  • Grigoris Bithikotsis
  • ポップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
Aşk Olsun Sana Sevgilim

Aşk Olsun Sana Sevgilim

  • Semiramis Pekkan
  • ポップ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

 

出典(今回のテーマ構成において主要なもののみ。これら以外に参考にした文献は脚注に記す。)

*1:希土戦争 (1919年-1922年) - Wikipedia日本語版 [link]

*2:ギリシャ魂のブルース、レベティコ - LE Monde diplomatique日本語版 [link]

*3:Rebetiko and Revolution: The Musical Subculture of Greece - BLOGS, ONLINE CONTENT, THE GLOBALIST NOTEBOOK, Yale University [link]

*4:八月四日体制 - Wikipedia日本語版 [link]

*5:ギリシャ内戦 - Wikipedia日本語版 [link]

*6:Music of Greece - Wikipedia [link]

*7:ギリシャ軍事政権 - Wikipedia日本語版 [link]

*8:ポリテクニオン・デーとギリシャの現状 - 地球の歩き方web [link]

*9:著作権のため全文の記述は控え必要部分のみを引用するに止めます。冒頭のYouTube動画(歌手ヨルゴス・ダララス本人のYouTubeチャンネル)の説明欄に歌詞全文と著作権情報が掲載されていますので、歌詞利用の場合はそちらをご参照ください。

*10:メリナ・メルクーリ。ギリシャ・アテネ出身の女優、歌手、政治家。代表作に「日曜はダメよ」(1960)、カンヌ国際映画祭女優賞受賞、アカデミー主題歌賞受賞。