今月トルコは共和国建国100周年を迎えます。100年前の1923年10月29日、ムスタファ・ケマル(Mustafa Kemal)指導の下、近代国家を目指した共和制トルコがスタートしました。
今回はそのムスタファ・ケマルにちなんで、〈Manastır'ın Ortasında〉(マナストゥルン・オルタスンダ(マナストゥルの真ん中に))という民謡を取り上げます。〈Manastır Türküsü〉(マナストゥル・テュルキュスュ(マナストゥルのバラード))とも呼ばれます。この民謡は、童謡として、またムスタファ・ケマル・アタテュルク(Atatürk = 建国の父)が愛した歌として、トルコ国民に共有されています。
まずは〈Manastır'ın Ortasında〉がどんな曲か聴いてみましょう。
MEYA Orkestrası & Gülden Hanedar | MANASTIR'IN ORTASINDA
Murat Engin, MEYA Orkestrası, Gülden Hanedar, Cengiz Berkün, TRT MÜZİK Programı, Turkey (2011)
三つ揃えのスーツ姿でトルコの伝統舞踊ゼイベク(Zeybek)を舞う男性が出てきます。ゼイベクが得意だったムスタファ・ケマルを表現していると思われます。
ということで、今回は〈Manastır'ın Ortasında〉という歌について掘り下げます。
民謡のルーツ
〈Manastır'ın Ortasında〉(マナストゥルン・オルタスンダ)はルメリアの民謡とされます。
ルメリア
・・・、どこ?
と思われたかもしれません。ルメリアはかつて存在したトルコ語の歴史的な地名ですので。
「ルメリア(Rumela)」とは「ローマ人の土地」を意味するトルコ語の旧地域名。かつてはビザンティン(東ローマ)帝国領で、14世紀半ば以降徐々にオスマン帝国領となっていった地域を指します。
時代によって範囲が大きく変化しますが、おおよそ現在の南バルカン諸国一帯(ギリシャ、ブルガリア、北マケドニア、アルバニア、コソヴォ、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)が含まれます。
Map of Rumelia in 1801
From William Miller, The Ottoman Empire, 1801-1913, Cambridge University Press, 1913. (public domain)
歌のタイトルの「マナストゥル(Manastır)」とは、トルコ語で「修道院」という意味もありますが、ここではかつてのルメリア州の首都だった都市を指します。現在は「ビトラ(Bitola)」と呼ばれています。
ビトラは北マケドニア南西部の都市です。先史時代から人が住み、紀元前4世紀半ばにマケドニア王ピリッポス2世によってヘラクレア・リンセスティス(Heraclea Lyncestis)という町が創建されました。中世には一時的にブルガリア帝国、オスマン帝国のそれぞれの首都が置かれたこともあります。
名称「ビトラ」は11世紀頃の古教会スラヴ語の「(キリスト教の)修道院、回廊」を意味する「オビテリャ(obitěĺь)」に由来します。修道院で有名な場所であったためこれが都市の名前にもなりました。時が経つにつれ頭文字の「オ」が忘れ去られて「ビトラ」となりました。
トルコ語名称の「マナストゥル」は、この「修道院」という意味のギリシャ語「モナスティーリ(Monastíri)」に由来しています。
歌詞と意味
歌詞
Manastır'ın ortasında
マナストゥルン オルタスンダ
var bir havuz, canım havuz.
ヴァル ビル ハヴズ, ジャヌム ハヴズ.
Bu yurdun kızları hepsi de yavuz,
ブ ユルドゥン クズラル ヘプスィ デ ヤヴズ,
biz çalar oynarız.
ビズ チャラル オイナルズ.
Manastır'ın ortasında
マナストゥルン オルタスンダ
var bir çeşme, canım çeşme.
ヴァル ビル チェシメ, ジャヌム チェシメ.
Bu şehrin kızları hepsi de seçme,
ブ シェヒリン クズラル ヘプスィ デ セチメ,
biz çalar oynarız.
ビズ チャラル オイナルズ.
Manastır'ın ortasında
マナストルン オルタスンダ
var bir pınar, canım pınar.
ヴァル ビル プナル, ジャヌム プナル.
Dimetoka kızları hepsi de çınar,
ディメトカ クズラル ヘプスィ デ チュナル,
biz çalar oynarız.
ビズ チャラル オイナルズ.
発音の注意
以下の文字の発音に注意してください。他は基本的にはローマ字読みで大丈夫です。
文字 | 発音 |
---|---|
ı | ウ(口を左右に引いてウ) |
c | ジ |
ç | チ |
ş | シ |
和訳例
マナストゥルの真ん中に
プールがある, 愛しいプール
この国の娘たちは皆勇敢だ
私たちは(楽器を)鳴らし踊る
マナストゥルの真ん中に
噴水がある, 愛しい噴水
この町の娘たちは皆選ばれている
私たちは(楽器を)鳴らし踊る
マナストゥルの真ん中に
泉がある, 愛しい泉
ディメトカの娘たちは皆シカモアのようだ
私たちは(楽器を)鳴らし踊る
解説というか蘊蓄というか
havuz, çeşme, pınar について
各段落2行目では、マナストゥル(ビトラ)の都の中心には、「havuz(ハヴズ/プール)」、「çeşme(チェシメ/噴水、井戸)」、「pınar(プナル/泉)」があると言います。
「çeşme」も「pınar」も水の供給源という意味では同じですが、この二つの違いは主に人工物(水道の代わり)か自然物かということのようです。
実際ビトラ市街地のど真ん中には噴水がいくつかあります。一つは中央公園にあるオスマン帝国時代の建造物イェニ・モスク*1横の噴水。うっかりすると見落としていまいそうなくらい地味な噴水ですが、歌の「çeşme」はここを指しているのかもしれません。
他にも、中央公園の南側のマグノリア広場には、マケドニア王のシンボル・ヴェルギナの太陽*2を形どった大きな噴水や、19世紀に建てられた物流倉庫・マガザ(Magaza)の庭にも小さいけれど印象的な噴水があります。小さな水飲み場もあちこちにあるようです。
ビトラを訪れたトルコ人観光客の人々は思い思いの噴水の写真を歌詞のフレーズとともにSNSに投稿しています。
「havuz(プール)」についてはそれらしきものは見つかりませんでした。埋め立てられたのか、もうないようです。
「pınar(泉)」は枯れていなければまだどこかにあるかもしれません。あるいは「pınar」の代わりに同じ自然の水源である「dere(小川)」と歌われているという話もあります*3。中央広場のすぐ北側にはドラゴール川(Dragor River)という澄んだ小川が町を東西に横切るように流れていますので、もしかしたら関係があるのかもしれません。
話を戻します。
各段落の3行目では、この国この町の娘たちは皆「yavuz(ヤヴズ; 勇敢だ)」で「seçme(セチメ; 選ばれている)」でçınar「(チュナル; シカモア)」だと言います。
それぞれ2行目の「havuz(ハヴズ)」、「çeşme(チェシメ)」、そして「pınar(プナル)」と韻を踏んでいます。
ここで「チュナル」とは「シカモア」のことです。カエデやプラタナスなどの幹の白い樹木、またはその樹木から作られた板材を指します。そこから転じて白く美しいものの喩えとして「チュナル」が用いられます。
「チュナル」については以前下記の記事でも取り上げました。ご参考までに。
Dimetoka について
段落3行目の出だしはそれぞれ「bu yurdun(この国の)」、「bu şehrin(この町の)」、そして「Dimetoka(ディメトカの)」と、それぞれ場所を示しています。「Dimetoka」は町の名前です。
他の音源では1番から3番まですべて「bu yurdun」となっているものや、「Dimetoka」の代わりに「Bu köyün(この村の)」と歌われているものもあります。逆に1番から3番まですべて「Dimetoka」となっているものも、特に古めの音源で多く見つかります。
ディメトカとはギリシャ最東部に位置する、トルコと国境を接する小さな町「ディディモティホ(Didymoteicho)」のトルコ語読みです。
かつては古代ギリシャからつづく要塞都市で、ローマ帝国時代には「最も強力で最も裕福なローマの都市の1つ*4」とも呼ばれていました。またオスマン帝国時代には一時期は都として、またスルタンのお狩場として存続し、都がイスタンブールに移った後も宮殿が建設されたりしました。
そのディメトカがなぜこの歌に出てくるのでしょう?
ディメトカ(ディディモティホ)とマナストゥル(ビトラ)は互いに遠く離れているのに。この歌のルーツはマナストゥルなのかディメトカなのか、それとも何か特別の歴史的つながりが存在するのか・・・わかりません。
古い民謡なので、時とともに変化するのはよくあること。あまり白黒はっきりさせる意味はないのかもしれません。マナストゥルもディメトカもひっくるめてルメリアの民謡、と言ってしまえばいちおう問題はないわけで・・
歌とムスタファ・ケマル
1曲はさみます。ムスタファ・ケマルの生涯を描いた2010年上映のトルコ映画《Veda》(ヴェーダ/別れ)の挿入歌の一つの〈Manastır Türküsü〉(マナストゥル・テュルキュスュ(バラード))です。
Manastır Türküsü (feat. Elçin Bulut)
Veda, directed by Zülfü Livaneli (2010)
映画はこちら↓
この映画はYouTubeで無料公開されており誰でも見ることができます。全編トルコ語で翻訳字幕も吹き替えもありませんが、映像表現は難しくないので、トルコ近代史やアタテュルクの交友関係等を軽く予習しておけばそこそこ楽しめると思います。
伝記映画なので予想外の結末はありません。ネタバレを気にせず予習することをお勧めします(しておかないとひたすらユルいです)。
さて、冒頭でも述べたようにこの歌はトルコ共和国建国の父ムスタファ・ケマル・アタテュルクが愛した歌としてトルコ国民に共有されています。しかし、なぜルメリアの歌をトルコ人のムスタファ・ケマル・アタテュルクが愛したのでしょうか?
実は、そもそもの話なのですが、ムスタファ・ケマル・アタテュルクは現在のトルコ共和国があるアナトリア半島ではなく、ルメリアのトルコ人なのです。
ムスタファは1881年、ルメリアのセラーニク(サロニカ、現・ギリシャのテッサロニキ)で生まれました。
少年の頃、特に優秀だったムスタファは幼年兵学校の担当教官から「ケマル(完全な)」の名前を与えられ、以後「ムスタファ・ケマル」を名乗るようになりました。
その後マナストゥルの陸軍高校、コンスタンティノープルの陸軍士官学校および陸軍大学へ進学。卒業後は将校として各地を転々とするも、セラーニクで秘密結社を組織し政治活動を続けていました。
つまり、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗戦しルメリアの領土を失うまで、ムスタファ・ケマルの生活と活動の拠点はアナトリアではなくルメリアが主だったのです。
〈Manastır'ın Ortasında〉は、ムスタファにとっては子供の頃から慣れ親しんだ故郷の歌だったということです。
さきほど紹介した映画《Veda》の中にも、ごくわずかですが、少年時代のムスタファが〈Manastır'ın Ortasında〉の出だしの部分を大声で歌うシーン(開始14分58秒あたりから)が象徴的に含まれています。
さいごに
〈Manastır'ın Ortasında〉というルメリアの民謡を紹介しました。
歌が少し古かったせいか、トルコの人々にとっては当たり前すぎるのか、それとも何かタブーがあるのかわかりませんが、ネットでは不思議なくらい民謡のルーツに関する詳細が見つかりませんでした。
今回はマナストゥルをオスマン帝国時代の都市(現・北マケドニアのビトラ)とする解釈がネット上で多く見られたのでそれを採用しましたが、マナストゥルを文字通りの「修道院」だと解釈しても歌の意味は通ると思います。ただし、ディメトカ(現・ギリシャのディディモティホ)に修道院があった(ある)という事実が見あたらないので、混乱を避けるため修道院とディメトカはいったん切り離しておくのが賢明そうです。*5
トルコでは小学校で習う歌らしいので、教科書や子供用の本にも普通に書いてあることなのでしょう。またいつか機会があれば書籍で探ってみたいと思います。
最後に1曲、イスタンブール県サルイェル(Sarıyer)の民謡、〈Sarıyer'in Ortasında〉(サルイェリン・オルタスンダ)で終わりたいと思います。
歌は〈Manastır'ın Ortasında〉ともよく似ていますが、音階が少し異なっており、ヨーロッパのルメリアよりも小アジア、中東という感じが強く出ている曲です。■
Sarıyerin Ortasında
Ergin Kızılay, Süper İstanbul Türküleri, Turkey (1994)
今回紹介した曲
MEYAの〈Manastır'ın Ortasında〉については音楽ストリーミング配信はありません。