ブルガリア語の学習や、インターネットでの音楽や歌の検索をする際、ちょっと気になるのが「ブルガリアのキリル文字」。書籍やレコードアルバムなどの印刷物は、ロシア語式の角ばった書体とは一味違う柔らかな印象があります。パソコン、スマホ、インターネット上ではロシア式のキリル文字が今でも標準的ですが、最近このブルガリア式の柔らかいフォントの文章をインターネットで見る機会も少しずつ増えてきました。
標準フォント(ロシア式)とブルガリア式のキリル文字フォントの違い。上はロシア語版Wikipedeia (Википедия)、下はブルガリア語版Wikipedia (Уикипедия)。いずれも「リンゴ」の説明文。ロシア語版は文字が角ばっているのに対し、ブルガリア語版の文字はいくぶん丸っこい印象。
「でも、ブルガリア語はわからないし、キリル文字も読めない。歌詞はABC(ラテン文字)やカタカナで読み方が書かれていればそれで十分」という意見もあるかもしれませんが、実はラテン文字を用いた翻字(ラテン文字化)のルール自体も時代とともに変化しています。すでにラテン文字に置き換えられいる伝統曲の曲名や歌詞を読む際には、その翻字がいつ頃行われたものなのか少し注意する必要があります。
今回はいつもとは趣向を変えて、ブルガリア語の文字に関するあれこれを今どきのものにアップデートしてみませんか、というお話です。
で唐突ですが、後で使いたいのでここで1曲紹介。ピリン(ブラゴエヴグラト)の「Руси коси имам (Rusi kosi mam)」という民謡です。後ほどこの歌詞をキリル文字とラテン文字でそれぞれ例示します。BGMにしながら先を読み進めて下さい。
Руси коси имам
Ensemble Pirin - Жива като земята, Balkanton BHA-10352, Bulgaria (1979)
ブルガリアのキリル文字
キリル文字はもともと古教会スラヴ語を表記するために10世紀初頭のブルガリア帝国で作られた文字体系です。この文字体系は、9世紀中頃に西スラヴのモラヴィア王国(現在のスロヴァキア付近)で作られたスラヴ語初の文字体系であるグラゴル文字を基にギリシャ文字を取り入れて作られました。キリル文字は時代を経て東方正教会のスラヴ語圏で広く使われるようになり、20世紀には非スラヴ系の旧ソ連構成国やモンゴルでも使用されました。現在はロシア式のキリル文字が世界標準として一般的に採用されています。
一般的なキリル文字(ロシア式)
(ブルガリア語で使われる文字のみ)
А Б В Г Д Е Ж З И Й К Л М Н О П
Р С Т У Ф Х Ц Ч Ш Щ Ъ Ь Ю Я
а б в г д е ж з и й к л м н о п
р с т у ф х ц ч ш щ ъ ь ю я
しかし、1000年以上の歴史を持つ国際文字体系であるため、各国の言語、発音、歴史的背景や地域性によって、実際に使用されるキリル文字の種類や形は微妙に異なります。ブルガリア国内では次のような書体も昔から印刷物でよく使われてきました。
ブルガリアのキリル文字
А Б В Г Д Е Ж З И Й К Л М Н О П
Р С Т У Ф Х Ц Ч Ш Щ Ъ Ь Ю Я
а б в г д е ж з и й к л м н о п
р с т у ф х ц ч ш щ ъ ь ю я
赤で示した文字は、標準形とは少し異なる形状をしています。丸っこい文字や縦長の文字が特徴的です。
次の例は、以前「Gankino Horo」の記事で紹介したアコーディオン奏者Boris Karlovの1979年のレコードジャケットの写真です。この写真には、丸っこいキリル文字で「борис карлов」と記されています。また、収録されている楽曲のタイトルも、ジャケットの右下にまるっこいキリル文字で記載されています。「Gankino Horo」は「ганки-(改行)но хоро」と書かれています。このようなスタイルは昔から使われています。
ところで、見た目にやさしいこの丸文字風キリル文字を、パソコンのフォントやインターネットのサイト上で見かける機会はまだそう多くありません。ブルガリア式のキリル文字フォントを使用したい場合は自分でインストールする必要があり、かなり面倒です。対応しているフォントを見つけるのも一苦労です。
しかし、最近ブルガリア政府は行政組織や公共団体のウェブサイト等でのブルガリア式キリル文字フォントの使用を推奨し始めました。これは「国家行政のインターネットページおよびポータルにおける組織的アイデンティティに関する規則」の2.3.4項(下図)に記載されており、使用可能なフォントの例も示されています。
ブルガリア共和国イノベーション成長省のポータルサイトの該当規則のページ。丸っこい字がとても印象的。ブルガリア式キリル文字に対応したフォントの例が複数示してある。
この規則は、ウェブサイトやソーシャルネットワークを利用した情報共有における行政組織間のばらつきをなくすための基準を定めています。
例えば、ブルガリアの国旗の規定では、「白 (#FFFFFF)、緑 (#009900)、赤 (#CC0000)」の色を使用し、「幅と長さの比率は3:5」と定められています。また、「グレースケールでの旗の描写、グラデーション、透明度、影の使用、色つきの背景への配置は許可されない」というような非常に細かい取り決めがなされています。
フォントについては、2022年3月頃にロシア式ではなくブルガリア式のキリル文字を使用することが追記されたようです。この変更は昨今の国際情勢と関連しているようで、xpucmoさんのfc2ブログ「ブルガリア産商品調査記 ― アインコーンの社」で詳しく説明されています。なるほど興味深い視点です。詳細については以下のリンク先を参照してください。
本ブログサイトでは、Google webフォントを自動でプリロードすることで、ブルガリアのキリル文字に対応しています。サンセリフ体にはSofia Sansを、セリフ体にはブルガリア語、セルビア語、マケドニア語に対応するVollkornを使用しています。読者が自身のデバイスにブルガリア式キリル文字フォントをインストールする必要はありません。
なお、余談ですが、パソコンの標準的なフォントでもイタリック体に設定するとブルガリアの字形に近いキリル文字が表現できるものがあります。例えば、MS WordではMicrosoft JhengHei、MingLiU-ExtB、SimSun-ExtBなどのイタリック体で丸っこい印象を出すことができます。完全ではありませんが簡単で便利な方法です。
キリル文字の翻字(ラテン文字化)
キリル文字は見慣れていない人にとっては少し読みにくいため、歌詞を音読する際などは、あらかじめラテン文字に翻字(transliteration または Romanization)する方法が一般的です。
伝統的に使用されてきた翻字ルールには、クロアチア語アルファベット(セルビア語⇔クロアチア語)*1や国際標準規格 ISO-9 (1968)*2に基づく文字の置き換えがあります。
а б в г д е ж з и й к л м н о п
р с т у ф х ц ч ш щ ъ ь ю я
(ブルガリア語で使われる文字のみ)
↓
a b v g d e ž z i j k l m n o p
r s t u f h c č š št ǎ j ju ja
(ISO-9 (1969) の場合)
赤で示された文字については、流派によって異なる書き方が存在します。文字「ъ」は「ア」と「ウ」の中間の音を表す曖昧母音文字ですが、対応するラテン文字がないため「ǎ」や「ŭ」などの記号付き文字が用いられます。さらに「ъ」を「â」とする書き方も曲名や歌詞の翻字でよく見かけます。しかし「â」は「я」に当てられるルールも存在し、「ŭ」は「й」に似ていて紛らわしいなどの問題があります。
いずれにせよ、伝統的な音楽や古いレコード、民謡の歌詞などでは、このような書き方がよく見られます。
しかし、このような翻字はブルガリアの社会主義が崩壊するまでの古いルールで、EU加盟後の現在では公式には使用されていません*3。1990年代半ば以降、ブルガリアでは英語の音-文字対応との互換性を考慮した合理化された文字体系が採用されています*4。
現在のブルガリア公式の翻字ルールは以下の通りです。
а б в г д е ж з и й к л м н о п
р с т у ф х ц ч ш щ ъ ь ю я
(ブルガリア語で使われる文字のみ)
↓
a b v g d e zh z i y k l m n o p
r s t u f h ts ch sh sht a ' yu ya
子音文字「ž, č, š, c, j」は、それぞれ「zh, ch, sh, ts, y」に改められました。
曖昧母音を表す「ъ」には「a」だけが採用された結果、残念ながら読み方も曖昧になってしまいました。さらに「-йя」は「-iya」と翻字されるべきところが「-ia」になるという例外*5もあり、合理性を優先させたために発音の正確さが犠牲になってしまったところがあるようです。
このブログでは、基本的に現在のブルガリア語の文字表記における規則を採用していますが、わかりにくい場合は旧式の書き方を併記します。
(「ǎ」くらいは残しておいた方が便利じゃないかなと思うので・・・)
ブルガリア民謡の翻字
文字に関する話が長くなりましたので、ここでブルガリア民謡の歌詞を一つ紹介します。ピリン(ブラゴエヴグラト)の「Руси коси имам (Rusi kosi mam)」という歌です。ブルガリアのキリル文字の歌詞とラテン文字化した歌詞、そして日本語訳をそれぞれ以下に示します。
РУСИ КОСИ ИМАМ
Lyrics: TraditionalРуси коси имам,
гребенче си немам /×2Припев:
Елено, вино цървено,
Елено, две цървени ябулки /×2Гребенче си немам,
немам кой да купи /×2Бело лице имам,
белилце си немам /×2Да ме жени, мама,
за младо ергенче,
да ми купи, лудо,
гребенче белилце
Rusi kosi imam,
grebenche si nemam /×2Chorus:
Eleno, vino tsǎrveno,
Eleno, dve tsǎrveni yabulki /×2Grebenche si nemam,
nemam koy da kupi /×2Belo litse imam,
beliltse si nemam /×2Da me zheni, mama,
za mlado ergenche,
da mi kupi, ludo,
grebenche beliltse
日本語訳:
私の髪はブロンド、
櫛は持っていない
エレナよ、赤いワイン(のような唇)
エレナよ、二つの赤いりんご(のような頬)
櫛はもっていない、
買ってくれる人は誰もいない
私の肌は白い、
白粉(おしろい)は持っていない
私を結婚させて、お母さん、
若い独身の人と、
櫛と白粉を買ってくれる、若者と
DALL-E 3 / ChatGPT
ブルガリアのキリル文字はちゃんと見えているでしょうか?デバイスによっては正しく表示されない場合があります。その場合はご容赦ください。
まとめ
ブルガリアのキリル文字と翻字(ラテン文字化)の変遷についてお話ししました。またRusi kosi imamというブルガリアの伝統的な民謡の歌詞の例を挙げ、今どきの文字と翻字を示しました。
言葉や文字は時代とともに変化します。民謡、民俗音楽や舞踊にも時代とともに流行り廃りがあります。権威主義的、啓蒙的な思想や差別的な言葉、地域紛争や民族分布の変化などにより、現在では不適切と思われる内容を含む曲も多数あります。それらを伝統文化として守り続けるには、大切に保存し引き継いでいくことも重要ですが、時代や環境の変化に合わせて柔軟にアレンジしていくこともまた大切だと思います。
最後に1曲、2018年に録画された「Rusa kosa imam」の合唱を紹介します。社会主義体制崩壊後の激動期(1994年)に設立されたCosmic Voices from Bulgariaによる合唱です。ブルガリアンボイスは一時期危機に瀕しましたが、今また新しい形で伝統文化が継承されています。■
Cosmic Voices from Bulgaria - Rusa kosa imam / Космически гласове от България - Руса коса имам
Cosmic Voices from Bulgaria - conductor Gancho Gavazov, soloist - Simona Stanoeva (2018)
※歌詞は前述のとは異なります。
今回紹介した曲
*1:ガイ式ラテン・アルファベット - Wikipedia [link]
*3:セルビアと北マケドニアでは今でもこのルールが使われています。
*4:L.L. Ivanov, On the Romanization of Bulgarian and English, Contrastive Linguistics, XXVIII, 2003, 2, pp. 109-118. ISSN 0204-8701; Errata, id., XXIX, 2004, 1, p. 157.
*5:United Nations Document E/CONF.98/CRP.71. 17 August 2007. [pdf]